【東大と闇金とGHQ】日本マクドナルド創業者が出会った“ユダヤ人軍曹”と“山崎”という男 ~起業家・藤田田 誕生前夜②~
闇金融「光クラブ」の山崎晃嗣への出資と死別
■「本人が死ねば契約は終わる」藤田が山崎に告げた言葉
藤田と山崎が東大で出会った1948年は、戦後の焼け跡の処理が終わり、ハイパーインフレが収まり、翌1949年には「ドッチ・ライン(※財政金融引き締め政策)」が発動され、超緊縮予算で公共事業半減、公共料金値上げでデフレ不況に突入、倒産が続発し失業者が増大した。
その時代に山崎は、複利預金と株式投資を組み合わせて、「20万円の資金を2億円」に増やす理論を展開したようだ。(『白昼の死角』著・髙木彬光)。藤田が山崎を「変わった発想」と評するのは、そのあたりのことを指すのではないだろうか。山崎は「光クラブ」の設立と出資を藤田に依頼した。
山崎が著した『私は偽悪者』(牧野出版)には、藤田をモデルにしたところが次のように書かれている。
藤田は「光クラブ」に出資したことを否定していない。天才肌の山崎を尊敬していたからだ。こうして山崎は1948年(昭和23年)10月、中野区鍋横マーケットに、高利貸し「光クラブ」の看板を掲げ営業をスタートした。創業資金の1万5000円を全部使って、東京タイムズと時事新報の3行広告欄に、
と2行広告を出した。
・貸出は【「10日に1割」の先払い】
ひと月に計算すれば利ザヤは3割4分になった。光クラブが大当たりした理由は現役の東大法学部3年生の学生が始めた事業ということで、信用があり人気が高かったからだ。また、闇市で大儲けした人たちが貸方に回り、金詰まりの中小零細企業主が借方に回った。既存の金融機関ではこのようなマッチングができなかったのも要因だ。たった1万5000円で2行広告を出しただけなのに2カ月半で1000万円の資金が集まった。翌49年1月には銀座の松屋裏通りにモルタル塗2階建ての事務所を購入し、光クラブの看板を掲げた。
その後、光クラブは社員30人以上を抱えるまでに急成長したが、49年7月、物価統制令違反の容疑で山崎は京橋署に逮捕された。これを引き金に営業活動はストップ、債権者約390名から約3000万円の取り付け騒ぎが起こり、光クラブは追い込まれた。
山崎は出所してから藤田の元にも相談に行ったと言われる。筆者はオフレコで、藤田が山崎に「国際法でいう『事情変更の原則』を適用、本人が死ねば契約は終わる」と、告げたと聞いた。
こうして1949年11月25日未明、山崎は青酸カリで自殺した。享年27だった。《第3回へつづく》
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